帰省をして感じた空気は10年前と全く一緒
こちらの記事でふれていた第一子出産時、母に対しての固定概念が外れたときのことを書きます。
現在小学生2年になる長男を出産したときの話です。初めての出産で何もかもが未知。里帰りすることをなんの迷いもなく決めていた。転院予定の総合病院は妊娠32週までに一度受診して、分娩の予約をとる決まりになっていました。最寄りの高速から降りて、窓から流れる空気はしっかり記憶に残る地元の香りはあの時と変わらない。帰ってきたのねと嗅覚からも実感する。
決まりのとおり妊娠32週までには受診し、約10年ぶりの実家暮らしだった。1週間も経つと、生活習慣の違いがストレスに感じはじめたり、高校までの実家に居た頃と同じ感情がででくるようになっていた。帰りたくなってしまう。帰れるわけはないけれど。
何がストレスだったか、ご紹介しよう。まず車がない。コンビニに行きたい。ドラッグストアに行きたい。気軽にふらっと出かけられないのがなかなか堪えた。ちなみにこの帰省後、私の愛車はバッテリーが上がってしまっていた。どれだけの長いあいだ乗っていなかったのかよくわかる。
そしてwi-fiがない。妊産婦にとって片手の娯楽、スマホを自由にいじれないのは現代の死活問題だと思う。ギガ消費を気にしなければいけない。昼間はいいのだテレビくんがいるから。なんとかならないのは夜中。七色の砂嵐か永遠流れる同じBGMのショップチャンネル、腹筋鍛えるつもりもないし、真珠の輝きに心はときめかないし。トマトを1㎜の厚さでカットする包丁を触って体感する暇があるなら寝たい。いや、胎動が激しかったり、お腹痛い気がして寝られないからテレビがついているのだけど。真顔で画面をながめつづける。夫がいたなら、どうして過ごしていたかな。夜、特に1時から4時は苦手だった。静かすぎて寝ていないのが変だよって言われているみたいで。
さらに、ちょっと何言ってるかわからない、といわれること確定のこと。それは人の気配があること。あのですね、わかっちゃいるのですが、なんといえば伝わるか、いや伝えたいのだけど、いつ宅急便がくるかわからないみたいな独特の戦闘態勢で気を張っていないといけないのがなんともいやで。衣食住、保障されている環境でなにをまったくなのですが。これらはひとりで過ごしているときのこと。
食事時、特に夜は家族そろって食卓を囲む。父、祖母、母、私の四人での食事。雰囲気が本当によろしくない。父の小言からはじまり小言で終わる感じ。特に祖母を叱責する場面が辛い時間だった。当時祖母には認知症の症状が出ており記憶が長続きしない。誰のせいでもないのに日中の出来事で気に入らないことがあるととことん怒鳴る。例えば、頼んでもいない草取りをした。まだ収穫予定でない消毒したばかりのナスを収穫してきてしまった。袖がおかずに触れそうになった。話の辻褄があわない。などである。叱責の最中にもし助け舟をだしたとしても火に油。自分も巻き込まれて怒鳴られる。静かにじっと嵐が過ぎるのを待った。父にとっては実の母親なのにどうしてなのか理解できなかった。毎日のように祖母が怒鳴られているのを見ていると、私も祖母が嫌な存在になってきてしまっていて、お願いだからお家にいてほしいと思っていた。
全能無知の母、正解であり不正解である、答えはそれぞれの心のなか
実家で過ごす生活では母は一番頼りにしている存在だった。子育て経験者がいてくれるのはたいそう心強い。健診での送迎や食事や洗濯、退院後は夜泣きの対応などたくさん助けてくれていた、が、24時間常に隣にいてくれるわけではなかったから、助けてほしいときに隣にいないことがままあった。自己紹介の記事でも書いたとおり実家は兼業農家のため、日中の母は畑にいることが多かった。朝は農産物の出荷、夜も出荷の準備をしている姿を何度も見た。それを見て大変働き者で尊いなと感心するのと同時に子どもの抱っこかわってよ、トイレいきたい、飲み物とりにいきたい、お風呂今のタイミングで入りたいんだけど、、、ともんもんとした気持ちでその様子をながめていました。ここで母に対する全能無知というイメージが崩れていった。ご都合主義爆発だが、娘である私を大切にしてくれないのね、すぅーっと頭が冷えていく感覚がした。そして、そうか母の人生は母のものなんだものと折り合いをつけようと考え始めた。その考えかたを発見してからというもの、なんで、どうしてと苦しくなることやその程度は浅くなってきた。里帰りがきっかけで気づくとは思わなかったけれど、きっと私の人生のシナリオには書かれていた出来事なのだろう。自分の人生は自分のものにしなくちゃね。
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