小4の秋、必ず出会う「死」と「思いがけない結末」の学び
半世紀の間、教科書に採用されている新美南吉の『ごんぎつね』。私も知っているし、絵本も持っている。教室が静寂に包まれ、どの子も神妙な顔つきになったあの日。この雰囲気は当たり前に醸し出せるものでないことを知りました。「当たり前」は当たり前でなくなっているということ。
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ごんぎつねにおいて「死」は兵十のお母さんが亡くなること。「思いがけない結末」とはごんの善意を知らずに兵十がした行動です。
読めるけど、理解できない
問題にされているのは兵十のお母さんがなくなり、葬式の準備をしている場面での表現をどう理解し、なぜそう理解しているのかということ。
よそいきの着物を着て、腰に手拭をさげたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。大きな鍋の中では、何かぐづぐづ煮えていました。『ごんぎつね』より引用
何が煮えているのかと都内の小学校に通う児童に授業で問いかけたところ、「兵十のお母さんを煮て消毒している。」「遺体を煮てどろどろにして骨にする」「火葬場がないからお母さんを煮ている」と発言したそうだ。!がいくつあっても足りないくらいですね。女たちは葬儀の参列者のために食事をこさえている。と理解させるには何が必要だったのか。
教師による問いかけ方がどうだったかが明確でないので、子どもの落ち度でこうなったと判断できないところもあります。ここで問題にしたいことは鍋で人を煮ることを想像し、発言できることに罪悪感がないこと。想像するまではいいんです。考えるだけならなんでもあり。でも、人前でしかも大勢の前で言えることに疑問を持ちました。考えたことを言葉にして意見を交換することで、自分や他者の意見を知り物語の理解を深めることが集団で学ぶ醍醐味。でもこんな展開の読解はサイコパスの集まりなのかと感じてしまいます。
情緒の理解には原体験の有無がカギ
物事の理解のためには、経験が必要です。葬式の参列者のために食事を作ること自体を知らなければ、それまでの経験の中からなんとかこじつけて考えるしかない。葬儀にでた経験がなければお母さんを鍋で煮てしまうのも不思議でないということである。私が使った国語の教科書の挿絵は記憶によれば、かまどと鍋が大きく描かれており、家のなかで兵十のお母さんが寝かされている場面がない。もし同じような絵を見ていたら、あれ、お母さんはこの中(かまど)かと考えてもおかしくないなとも思ってきてしまった。さっきサイコパスなんていっておいてね。
葬式には食事があるという概念は、葬式にいって食事をしなければ知ることがない。知識だけでは浅い。経験しないとわからないもの。経験しなければ、人が亡くなったのに酒を飲んで大声で話したり、にこやかに寿司をつまんだりする大人たちの様子と自分の気持ちのアンバランスさを感じることはできない。こうやって、ハレとケを知り親戚づきあいたる小さな社会を学んでいく。
葬儀に限らず、年中行事自体を知るだけでなく体験できる子どもは限られてきているのだなと実感している。直近でいえば実家ではお菜漬け(野沢菜漬け)、餅つきをする。私はいつも参加する方。子どもに経験させるには実家に連れていくしかない。こうやって経験から距離がうまれていつしかしないことが当たり前になって、知らないことも当たり前になっていくのだろうなと感じた。今年はお餅つきに連れていこうかな。子どもはきっと喜ぶ。ささやかな日々のなかにかけがえのない喜びがあるのだ。準備してくれる両親も老いてきている。それこそ「葬儀」を経験させることはいつか必ずくる。遠く遠くの未来ではない。だから、今できることをたくさん経験させてあげたい。
批難するのは簡単
正しく読解できないことは、読解に必要な経験が足りないことと、技術の習得が未熟だからであって伸びしろのみ。要はやればできるということ。できないことではなく、できていることを認めてあげる方が子どもの生きる力は伸びるのだとか。このあと子どものお迎えに行くけれど、学校幼稚園がんばっているねといってみようと思う。
講釈垂れるほどできた人間ではない。私だってまだまだ学ぶことたくさんある。完璧なんて存在しない。
認識と理解や読解に対する理論的なことを考えて考察してみようと思ったけれど、自分の子どもには何してあげられるかを考えていたらこんな感じの仕上がりになった。ごんぎつねでいえば、赤と青の使い方からする考察とかね。
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