使命は何か
この時代に人間として生きている意味を考えたことはあるでしょうか。何を成し遂げるためにいま、ここにいるのでしょうか。これを考えるには精神を研ぎ澄まして、自分と対話するとなんとなく浮かんでくる。結局は答えは決まっていなくて、自分で創るということ。命の使い方は自分しだい。これまでどう生きてきたかなと過去を振り返ると、やり直したいこともある。けれどそれもコミコミでいまの私だから変えないでおこう。過去の捉えかたも変えてしまえば今の自分を苦しめることもない。嫌なことや悲しいこと悔しいことが思いだされても、そのなかから愛の部分のみ感じ取ればいいときいたことがあります。はて、愛とは。心理学を勉強していると出てくる言葉。アドラー心理学において愛は我々の文明のすべての基礎というくらいですから、枯渇させてはならないのですが、訓練をしないと維持できないようです。その訓練とは共感力を磨くこと。それは相手に自分を重ね合わせる能力です。この能力を育成するのは相手の感情と同じ感情になることではなく、相手の原型(プロトタイプ)や眼鏡(ものの考え方、価値観)を借りて物事をみること。そしてより良い命の使い方は、他者の存在を認め共感すること。どうやら他者に与えて与えて与えて、共感して共感して共感することが社会での愛のある自分をつくるらしい。私の今の感想は、与えて共感してってそんなに徹さないとならないのか、ツラいな。です。でも、知らないうちに、与えているかもしれないし共感もできているかもしれない。だから、?がたくさんでもよしとします。
昔はよかったよね、は自分が退化している証拠
こんな風に懐かしがってみることがある。私にとっての昔はよかったよねは、CDである。宇多田ヒカルのアルバムで聴いたFirstLove。何度も聴いた。主題歌になっていた魔女の条件も観た。アルバムを手に入れた日のことをまだ思い出せる。本屋さんで予約してやっと手に入れたもの。しっかり覚えているのは感情をがっつり揺さぶられたから。でも、もう一度おなじことを再現しても同じ感情を味わうことはできない。美化されている部分が大きいように思う。
今の自分がうまく社会に適合できないから昔はよかったよねといってしまうのだと思う。世界はどんどん良くなっている。その波(情報)に乗れずにいるのは自分のせいである。CDに限っていえばもう本屋さんで買い求めることはないし、検索すれば無料で何度も視聴できる。それが素晴らしいと同時に、すこしのさみしさも感じる。このさみしさにわたしは反応しているように思う。これだけを切り取ると昔はよかったよねは悪くないけれど、時代には時代にあった生き方暮らし方考え方がある。自身を進化させ続けることが選択肢を増やすのだと考えている。だから新しいものにであったとき、拒絶から入るのはやめて好きになる糸口を見つける努力をしていこうと思う。
私はこの世に存在しなかったかもしれない
私は三人兄弟の末っ子で、兄とは年齢が離れている。詳しくは聞けていないが、私が母のお腹に宿る前に赤ちゃんを授かっていて流産してしまっていたらしい。もしその子が無事に生まれていたら、私は生まれていなかったかもしれない、ということだ。そう思うと、その赤ちゃんに会ったこともないけれど、命を粗末にできないなと感じている。
そもそも、この世に人間として生をうけ、不自由なく暮らしていることがとてつもない幸運である。世界はどんどんよくなっている事実がある一方、人々の諍いは絶えずみんな幸せとは言えない。じゃあ、同じように悲しめばいいのか。これは共感ではない、ただの同情である。相手の関心に関心を持つこと。自分だったらどうするか考え続けることが今私にできることだと思う。
生まれてきた意味はこれからいくらでも創れる。
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